歩んできた道の一覧
2009/12/23
私の歩んできた道 第7回~足踏み
その日も、店舗行脚をしてました。
昼下がり、横断歩道を歩いていると、右側から悲鳴が響く。
その瞬間、トラックが目の前に
車に轢かれたようです。
気づいたときには、道路に横たわってました。
10メートルも飛ばされたようだ。
大変なことになった。簡単に会社に戻れないなと感じた。
工場の基盤整備が、止まってしまう。焦りもあった。
現場に戻るまで、3ヶ月の時間がかかることになった。
2009/12/22
私の歩んできた道 第6回~羅針盤の登場
次第に落ち着いてきたが、
相変わらず、納品数量の間違い、品物違い、シールの貼り間違いなどのミスが多く、不安定な生産体制が続いた。
そういう毎日を送っていたある日、取引先の紹介で、食品の安全供給のスペシャリストを紹介していただく。
大変熱心に改善策練っていただき、やらなければならない事の優先順位をつけていってくださった。
短期、中期、長期の戦略を教示いただき、いままで、嵐の中の小船であった当社に、水先案内人が乗り込んでくれた感じであった。
従業員の衛生教育や掃除マニュアル、制服、作業手順など改善していくうちに、
驚くほど、人の定着率が高まり、ミスが減っていった。
そのとき事件がおきた
続
2009/12/21
私の歩んできた道~第5回 注文の爆発
納品が始まったが、商品企画の失敗から、納品数量は伸びず苦戦していました。
先方の本部や各店行脚をして、少しずつ納品数があがってきました
今回の取引は、小売店と直接の取引ではなく、各店配送する問屋さんの取引でした
その問屋の方から、他の店でやりませんか?という誘いがありました。
まだまだ増やさないと、経営が安定しないこともあり、お仕事を受けることにしました。
問屋さんからのお仕事は、注文が当初考えていた数字の5倍もありました。
アルバイトも十分な教育、設備も十分でないままの大量注文であったため、しっかりした体制で臨むことができず、皆様に迷惑をかけることに。
当然、スタッフの定着率も悪く。不安定な体制が続きました。
そのなかでも、一人のアルバイトが劣悪な環境にも関わらず、主軸に成長したことにより、だんだん安定してきました。
2009/12/19
私の歩んできた道 第4回~卸売り販売スタート
アルバイトに行き始め、お弁当が、センターというところに、いったん集められ、そして各店に配られることに始まり、商品品揃えなど、だんだんわかってきたところ。
お店の社員の人から、「家の人は、何をやっているの」となぎげない質問。
「弁当屋です」と答えたところ。
「なんで、早く言わなかったの、うちの店で販売できるかもしれない。これから本部の商品バイヤーに連絡するよ」
ありがたい声をかえてくれました。
朝は、お店でレジを打ち。午後は、本部で商談という毎日が続きました。
商談は、難題山積でしたが、先方の好意もあり、お取引開始することになりました。
どこの店にも扱いがない、ひよっこメーカーの商品を仕入るリスクは、大変なリスクだったと思います。
担当者様のご英断に感謝です。
2009/12/19
私の歩んできた道 第3回~アルバイト
自前で製造拠点を設け、これからとドンドン売り上げを上げなければならない所だが、お客様に飽きられはじめ、売り上げもピークを打ち、横ばいになっていった。
自前工場を維持するため、拡販しなければならない。
外に売りに行かなければならない。
他の店舗に買ってもらう、営業をすることに。
考えて見れば、営業のノウハウがない。
運転もできないから、トラックに乗っけて売りに行くこともできない。
そのとき、なんとなく、求人情報誌を眺めてみたら。
都心部のコンビニストアで働きませんか?
その店は、当時百貨店の子会社の少しおしゃれなコンビニであった。
なにか、得られる物があるかもしれないと信じ、朝7時から働きに行くことにした。
2009/12/19
私の歩んできた道 第2回~転機
開店の翌日も、その翌日も倍倍ゲームのように、売り上げが上がり続けた。
どんなに作っても、製造が間に合わない状況が続いた。
そのころ、製造メーカーから相談を持ちかけられた。
商品供給は、父親が勤めている会社であり、伯父の会社。
私は、てっきり父親が勤める会社の定番商品を扱っていると思っていたが、そうではなく。
私の店のために、特別に作っていたものだった。
製造供給している会社からみると、はっきりわけた方がいいと思うのは当然である。
最近、順調にきているみたいだから、空いている別のフロアでやってみたらどうかというものであった。
追加の設備工事や家賃の発生など、心配もあったが。
1階のフロアで、工場製造を始めることにした。
嵐の前触れと知らずに
続
2009/12/19
私の歩んできた道 第1回~創業
1994年 6月1日、私は、自由が丘にいた。
畳半分のスペースのプレハブ小屋に弁当屋の開店準備をしていた。
道路側に、ショーケースを向けた簡素のものだった。
期待に胸を膨らませていた。
狭い店だったが、準備が間に合わず、夕方になったので、次の日開店することにした。
店を開店する前の数ヶ月、父親が勤め、伯父が代表を務める、ケーキと惣菜製造の百貨店販売会社にアルバイトをしていたが、その程度の事しかわからないままの、お店の開店である。
まったく、無鉄砲極まりない。
そして、6月2日開店をした。
用意していた、商品は正午前に売り切れ。
完売御礼の張り紙をして、意気揚々で家に帰っていった。
明日は、倍の数を用意している。
興奮状態でその日は終えた
続く
2009/12/18
私の歩んできた道~プロローグ
私どもの食品業界は、古くからある業界です。先人たちが積み上げた功績は感じておりますが、現在も、合理的とは、到底思えない古い慣習が、はびこっています。
会社を創業して15年。もう、20年、この業界のことを見聞きしてきました。
昨日、ある人から、昔の話を書くことのアドバイスをいただきました。
長らく封印していましたが、書いてみようと思います。
父が製造側で、我が家に来た大人たちの人間模様を子供のときから見ていました。
まったく、この不条理、非合理を打破したいと考えてきました。
例えば
いくら商品が良くても、接待しないと、納品ができません。</
ですから、いくら提案しても。
「商品いいだけどね(ため息)あそこの売り場は、もう○○社で決まりなんだよ」
こうなります。
企業が戦略として、顧客の囲い込みに成功しているからいいじゃないか
といわれる向きもあると思います。
売り場は、たとえ民間企業でも地域の食を支える社会的な責務もあるから、
担当者と業者の関係のみで決められ、歪められることへの疑問があります。
懸命に努力しているレベルの高いメーカー様の商品を、スムーズに社会に出すことの責任があると感じています。
私は、当然、社会の中にいる訳ですから。